20代半ばで借金1億円。しかもこの先2年は、無収入。
もし、そんな状況に自分が、あるいは自分の息子がなったとしたら、どうだろう?
愕然とする。いや、おさき真っ暗と悲嘆に暮れるのではないか?
日本が誇る和牛のトップブランドの1つ「米沢牛」を育てるには、それを引きうける覚悟が求められる。
まず最初に、牛を育てる牛舎がいる。巨大な設備投資だ。
同時に、そこで飼う牛も買ってこなければならない。高品質を売りにする銘柄牛であれば尚のこと、血統も重視し、価格も上昇する。
その上、買ってすぐ売りに出せるものではない。生後月齢32ヶ月以上の黒毛和種でないと「米沢牛」を名のれない決まりがある。
つまり、2年以上もの間、巨額の先行投資を抱えたまま、育てた牛を売ることができない。収入がない、ということだ。
これを引き受けられるか?
「オレには、ワタシには、ムリ」という人がほとんどだろう。
ところが、ここ飯豊町では、その重責を自らかって出る人がいる。
長岡正芳さん(38)も、その1人。
長岡さんだけではない。同世代の若手肥育家が、町内に10人以上もいる。彼らの多くが、二十代半ばにして、この道を選んだ。
なにが彼らを肥育家の道に向かわせるのか?
「やっぱり、オヤジの背中を見てましたからね。」
長岡さんはいう。
そこには、多くの言葉を通わさずとも伝わる、強さ・逞しさがあった。カッコよかったのだ。だからこそ、「オレも…」と思った。
若者が町を出ていくのは、仕事がないからですか?
「カッコよさ」って、とても漠然としているけれど、人がなにかを選択する際のとても大きな理由になる。それは個人にとってのみならず、地域にとっても、実は重要な要素だ。
よく、「田舎には仕事がないから、若者が都会に出ていく」という人がいるけれど、これは必ずしも正しくない。なぜなら「職」があるか無いかでいえば、多くの地方に職は「ある」のだから。むしろ人手不足が深刻化しているぐらいだ。
ただ、その職が、自分の就きたいものなのか、なりたいと憧れるものか、という点で、若者の目は外へと向かう。「自分もあんなふうになりたい!」と思わせられる人が周囲にいるということが、一歩ふみ出すときの大きな力になる。
「カッコいい」とは、ことほどさように重要なのだ。
飯豊町でいきいきと活躍する20〜30代の人を見ていると、その多くが親と同じ道を 「よし、オレも…」 とすすんで選んでいると気づく。
長岡さんはもちろん、「いいで米ネットワーク」の新野さんたちもそうだし、菓子職人の道を選んだ「香月」の味田さん兄弟(飯豊町 STORY #5 で登場予定)もそう。
親たちが確かな、威厳ある姿を見せたに違いない。
ブランドとは、業者や消費者がつくってくれるものでなく、自ら築くもの
そんな努力のつみ重ねや技術の伝承が行われた先に、「ブランド」と呼ばれるものがある。お祭りイベントをやったり、有名人を起用して宣伝すれば出来るものではない。
地域活性化や地場産業の振興を語るとき、ほぼ誰もが口を揃えて「ブランド化を目指す」というが、しっかり足元を見つめ、中期的視点から地味なとり組みをつづけているところは思いのほか少ない。
補助予算がとれたから「PRイベントをやりましょう」とか「今年度中になんとか…」などと、短絡的な成果を求めたりする。そして打ち上げ花火のごとく、1発ドーンとやって終わる。つづかない。
一方、「米沢牛」というトップブランドを育てた人たちは、長い年月をかけて、苦心の末ようやく、自らを律する厳しい基準を定めるに至った。
「米沢牛」とは、
1. 置賜3市5町内の登録事業者が育てた牛
2. 生後月齢32ヶ月以上の黒毛和種の未経産雌牛
3. 3等級以上の外観・肉質・脂質に優れた枝肉
これら全ての条件をクリアーせねば、名のれない。
「ブランド化」は、東京の業者や消費者がしてくれるものでなく、まず自分が高い基準を自らに課すことから始まっている。
それを承知で「オレがやる!」と肚(はら)をくくった人によって、「ブランド」が保たれている。
米沢牛全体の実に約40%もの牛が、ここ飯豊町で育つ。その陰には、こうした担い手たちの努力の積みかさねがある。