「日本の魅力は、ローカル(地方)にこそあり。」 そう思い、地方を巡る旅に出ようとしたとき、守りたいと思うルールがあった。
いろんな人に会うだろう。いろんな暮らしを見るだろう。美味しいものも食べるだろう。そのとき、目の前のものを、まずは素直に受け入れよう。「あっちの方が良いよね」「あそこのはもっと甘いよね…」 つい他者と比較してしまう。批評家になる。
なぜ、素直に目の前のものに「いただきます」といえないか。そんな反省があった。
地産地消がどう、栄養価がどう、カロリーは…? どうでも良いとはいわない。ただ、まずは目の前の人と、目の前の料理を、一緒に時間を共有できることを、感謝し楽しもう。
「いただきます」とは、「あなたの命を(今から)私の命にかえさせていただきます、という言葉です。」 そういったのは、永六輔さんだ。だから礼をいう、感謝の気持ちを表す。
それをまさに、眼前に突きつけられたのは、金峯山寺 蔵王堂にほど近い「矢的庵」(やまとあん)でジビエラーメンを啜(すす)っていたときだ。
そば職人であり、猟師でもある店主・大矢貴司さんが、猟期(11/15〜3/15)限定で「ジビエそば&ラーメン」を出しいる。
すぐ隣りでカフェ レストラン「魚歌家」(さかなかや)を経営する下中一平さんも話に加わる。
下中さんは3代続く猟師の家に生まれ、子どもの頃から祖父・父とともに猟に出る、40代ながらベテラン猟師であり、リーダーだ。その下中さんが、教えてくれた。
相手の命を全ていただく、そして受け継ぐ。命がけ故のリスペクト
イノシシは、かつて山クジラとも呼ばれていた。山の主だ。その主の命を止める。
漁師たちが大海で巨大なクジラに挑み、その全てを無駄にすることなく生かしたように、猟師もまた山クジラに挑み、その命を余すとこなく頂く。成就させる。だから「(命を)いただきます」だし、「ごちそうさまでした」という。
ワナは使わない。銃で狙う。当然、危険を伴う。
しかし、ワナを使えば、相手を傷め、苦しめる。「1番粗末にしない方法で、命をいただく」。
相手への敬意、畏怖がある。
ヒリヒリした命のやりとり、その積み重ねが、下中さんの表情を精悍なものにしたのだろう。
当然、肉をさばくことも自ら行う。それが相手から命をいただき、受け継ぐことだから。
そんな話を聞きながら、「矢的庵」のジビエラーメンをいただいていると、体の中からカッカと熱くなってくるのが分かる。そのとき、下中さんがいった。
「ちょうど昨日、イノシシを撃ちました。見ますか?」
「森の番人」と「森の主」 〜 人と獣のせめぎ合い
イノシシは腹を見せながら、ぶら下がっていた。すばやく内蔵を処理した後、血抜きのためこうしておくのだ。
思いの外、獣の匂いはしない。レバーなどは刺身で食えるほど新鮮だ。
もう命は止まっているのに、目の前に居るだけで「圧」を感じる。
これが生きて、突進して来たらと思うと…
こうした生々しい現場を見ると、きっと一部の人からは野蛮だ、残酷だという批判が出る。しかし、そうした人がなんの生きものの命をいただかずに生きているかというと、そうではない。
「今の社会は、分業制が進んでいるから、一部の人は食べものを「商品」としてしか見ない。ある意味、現場のイヤな部分は見ずに、自分はキレイな場所にいて、人を批判だけするのはどうかと思います」
「ぼくが猟を教わった祖父の代の方々は皆、人として素晴らしい人ばかりでした。座敷を歩くかのように、山を颯爽と歩いて。昔、猟師は木こりと表裏一体だったので、「森の番人」とも呼ばれていたんです。暮らしの中で薪を使っていたこともありますが、子どもの頃に入った山は、枝1本落ちてないほどキレイでしたよ」
そうした、自然と生き、生かされる感覚、命の交感が、今は感じにくくなっている。
「現代の生活は、人を神経質にさせるが、決して敏感にはしてくれない」。そういったのは、白洲正子だ。
吉野の山で、人の話に耳を傾けていると、たった一杯のラーメンからもいろんなことが見えてくる。
ラーメンのおいしさとは別の、もっと心にも、体にも沁み入るものに触れられる。だからまた、人はこの山に来るのだろう。
我をふり落とし、平静を得る。迷ったときは、美吉野の山に来ればいい
「矢的庵」を出ると、雪はとけ始めていた。
金峯山寺は、目と鼻の先だ。
食を巡る旅からは脱線するが、せっかくの吉野山だ。ふだんは自堕落な自分でも、蔵王堂の前で襟を正したくなる。
金峯山修験本宗 総本山 金峯山寺(きんぷせんじ)。教学部長・本堂部長の川畑妙仁さんにお話を伺う。
険しい山岳地を疾駆する山伏の印象からか、一般にはちょっと近づき難いイメージのある修験道だが、この町ではごくふつうの日常にとけ込んでいる。子どもたちには「お寺の和尚さん」がいるところと映っているだろう。妙仁さんの口調も、優しい。
「(修験道の)抖櫢(とそう)修行は、大峰奥駈(おくがけ)をする中で、自分の中の悪いもの、我をふり払っていくことです。そうして我(エゴ)をふり落としていくと、最後に残るのは自分自身の心。目に見えない清らかな心です。」
「自分1人ではできない。1人で強く生きているように見えても、実は周りから力を得ている。1人では続かない。」 そう気づくことで心の平静も、周りへの感謝も生まれる。
それがさらに一歩、前に踏み出す力になる。
命の力が湧いてくる。
そんな話を拝聴した。
ときあたかも「忖度」を巡って世間が騒がしい。相手の気持ちを推しはかることが、あたかも悪で、自分の価値・主張を押し通すことが善であるかのように報じられさえする。
しかしそもそも、相手の気持ちを推しはかる、気遣い・気配りは美徳ではなかったか。おもてなしが賞賛されたのも、そんな心の機微があったからではないか。
周りへの配慮がない自己主張は、ただのエゴに過ぎない。
世知辛い世の中になったものだ… そう思ったら、吉野に来ると良い。
みよし野の山のあなたにやどもがな
世のうき時のかくれがにせむ (読人知らず 古今集)
「世のうき時」に人が向かったのは、大和の時代からいつも吉野の山だったから。
そうして、心の清浄をとり戻す。吉野には、来たほうが良い。
(蛇足ですが、上記「忖度」についての発言に政治的な意味・意図はありません。一般的、生活者の暮らしのなかの「気配り・気遣い・思いやり」といった意味合いで使用しているに過ぎません。そのへんはあまり忖度なさらぬよう…)
「手打そば 矢的庵」
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【住所】 奈良県吉野郡吉野町吉野山2296
【営業】(通常)11:00~17:00 (観桜期)10:00~18:00 ※夜は要予約
【定休日】不定休